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あんぽ柿の歴史

江戸時代~明治

養蚕景気
福島盆地は江戸時代初期から養蚕が盛んになり、登世糸というブランドで京都大阪江戸に出荷していました。
江戸末期には伊達郡梁川で画期的な技術革新(温暖育の完成)が起こり、良質の生糸の大量生産が可能になりました。江戸時代後期、全国で年間25万枚生産された蚕の種紙のうち、18万枚は信達地方(現在の福島県伊達市、伊達郡、福島市)の生産です。
梁川の隣村であった五十沢も大変養蚕が盛んで、幕末~明治、好景気に沸きました。五十沢の上村(江戸時代、五十沢は西の上村と東の下村のそれぞれに肝煎がいました)の肝煎(庄屋・名主)であった宍戸家では、江戸の三井との生糸取引で財をなし、貧民救済事業や、幕府への大金の献金などをしています。
拙宅「竹の根」も、明治4年建築…養蚕の好景気で建てた典型的養蚕農家で、分不相応に大きな家です。

一方、宝暦年間(1751年~1763年)五十沢の七右衛門がどこからか蜂屋柿を五十沢にもちこんだのが、五十沢の柿栽培の始まりと伝えられています。そのため、江戸時代の五十沢では蜂屋柿を七右衛門柿と呼んでいました。蜂屋柿の皮を剥いて連(れん:柿を干すための縄)にさげて天日で乾燥した干し柿を、江戸時代には天干し柿(あまぼしがき)と呼んでいたため、これが訛って「あんぽ柿」という名称になったのではないかと推察されています。当初は一般的な干し柿…黒ずんだ色で、これは後の硫黄燻蒸あんぽ柿が完成してからは「黒あんぽ」と呼んでいます。
大正

養蚕の斜陽化

あんぽ柿誕生前夜
養蚕景気は伊達郡五十沢村に大きな富をもたらし、小さいながら製糸工場もできました。五十沢村の養蚕農家は、当時、飯坂温泉などの歓楽街で、一晩で当時の平均的な農家の年収に匹敵するような散財をして遊んだそうです。
しかし、こうした異常景気は、村民に必ずしもいい結果をもたらしませんでした。当時の五十沢村民は、近隣から「酒飲み」で「働かない」と揶揄されたそうです。
一方、明治末から大正になると生糸相場の乱高下も問題になってきました。大もうけをすることもあれば、破産してしまう農家もあったのです。
そして、生糸市場自体に斜陽化の兆しが見え始めました。
さらに、五十沢寺前にあった製糸工場が火災で焼失するという大事件が起きました。
拙宅の寺前にある畑は通称「さんしぶ」と呼びますが、これは製糸工場に隣接していた「蚕種部」の跡地です。

こうした中、五十沢村の主な人たちは、五十沢村の「立て直し」運動を始めます。
当時の五十沢村の主な人たちによる五十沢村改善運動は以下の通りです。

(1)ぼた餅運動(祝い事は遊興街に繰り出すより自宅で牡丹餅)
(2)結婚式の改善(質素に)
(3)村風の改善(質実剛健)
(4)耕地整理による米の増産
(5)あんぽ柿の移出(出荷)
あんぽ柿誕生  大正年間の中頃、五十沢村の隣村である大枝村出身の佐藤福蔵氏が米国カリフォルニア州に行ったときに、干しぶどうの乾燥の硫黄薫蒸を知り 、これを兄の佐藤京蔵氏に伝えました。佐藤京蔵氏は干しぶどうの硫黄薫蒸をあんぽ柿に応用すべく研究を進めたが完成せず、その後、五十沢村の鈴木清吉氏、曳地長平氏、岡崎幸三郎氏、飯沼庄三郎氏、曳地宗三郎氏、佐藤太郎右衛門氏、宍戸与惣次氏、岡崎文太郎氏、岡崎広七氏、小野良蔵氏らが中心となって黒あんぽの改良研究をすすめ、試行錯誤の末に1922年(大正11年)に現在の硫黄薫蒸あんぽ柿の原型を完成しました。早くも、翌大正12年(1923年)11月3日にあんぽ柿出荷組合を創立し、あんぽ柿の出荷を始めました。

なお、五十沢は柿の栽培と干し柿作りに特に適した気候で、五十沢で栽培するとほかの地方よりも遙かに甘みが増すことが大正末期の品評会の記録に残っています。福島盆地の北端の南斜面に位置するために日照量が多いこと、内陸性盆地型気候で寒暖差が激しいこと、福島盆地西側のように吾妻連峰からの吹き下ろしによる降雪がないこと、西日本のように台風の被害を受けることが少ないこと、土質などの複合要因が、五十沢が柿栽培に適している原因と考えられます。

昭和4年(1929年)に五十沢小学校農業教師として赴任した佐藤昌一(まさいち)氏が、あんぽ柿の安定した製法を確立して普及に努め、五十沢全域にあんぽ柿作りがひろがりました。あんぽ柿によって、養蚕業の衰退の不景気の中でも五十沢の農家は比較的影響が少なく、冬の時期に都会に出稼ぎに出ることもなく、安定した収入を得られるようになりました。

あんぽ柿出荷組合は当初五十沢農協に引き継がれたようですが、その後の農協合併によって、梁川農協、伊達みらい農協へとかわり、その過程で「五十沢のあんぽ柿」という商標は失われました。

昭和40年代に五十沢が全国の農業団体の視察を受け入れたため製法が全国に伝わり、現在では全国各地の主に山間部で作られています。
また、養蚕業が衰退したことで、一面の桑畑は、柿畑、リンゴ畑、桃畑といった果樹園に姿を変えました。

参考資料:五十沢村史、五十沢地区内の口伝


初期のあんぽ柿のラベル

中央の円形のマークは、現在の五十沢小学校のマークと同じ物です。五十澤の3文字のうち、五と十を中心に、周りに澤を配しています。


あんぽ柿の製法を解説したテキスト

 

あんぽ柿普及期のテキスト


財団法人富民協会による表彰状

戦争に向かう暗い時代、国策の富民制作の中で、五十沢村は優良更生農村として表彰を受けました。


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